こんにちは。Tsukuruです
社会に出てから7回転職を経験した私ですが、そんな私にも新卒1年目・新卒同期と言える人達がいます。20数年前の話にはなり、お互いにどう思っているかは関係無く、やはり新卒同期というのは少し特別なのかもしれません。こんな私ですが彼らにとっては、貴重な(?)新卒同期仲間として少し特別な存在に思ってくれているのかもしれません。最近新卒で入社した会社の同期会に読んで貰える機会があり、思うところがありましたので投稿させて頂きたいなと思いました。
目次
20数年振りの同期会
因みに、私が新卒で入った会社は、銀行で、しかもかなり大手でした
私は、早々について行けなくなりケツをまくって辞めた訳ですが、当然に相応の力量を持った同期が大半で、更にその上を行くようなハイスペックなメンツも何人もいるような状況でした。
(今にして思えば、自分がその銀行に入社したのは、もはや事故だったんじゃ無うレベル)
同期会とういのも、その同期の一人が、ビックリするような有名企業の重役に就任したと言うことでその祝賀会的として招集された感じでした
「勝ち組」「負け組」じゃなかった
世の中、特に社会に出てからは、自分が「勝ち組」か「負け組」と言うことを常に意識したり、突きつけられている感覚はありませんか?
年収が高い・安い、出世が早い・遅い、勤務先がホワイト・ブラック、大企業・中小企業etc、、、比較要素は無限にあり、結構分かり安く勝ち負けが分かってしますよね。その事で悔しい思いを感じている人もいるのでは無いでしょうか?
でも、今回20数年ぶりの同窓会で、沢山の元同期と会って、社会人の“人生”にとって価値があるのは「勝ち組」では無く「納得感」じゃないかと感じました
同窓会の様子
さて、この同期会は、出世頭の重役就任を祝うで会でした。
入行当時の同期は約120名、同期会に出席した人数は20人程度。
転職した中でも大企業に行った者、ベンチャー企業に移った者、家業を継いだ者、起業した者。
(私は勿論転職組ですが、回数だけなら断トツNO1!)
銀行に残った人達も、本店勤務、支店勤務、関連会社に出向などなど。
当日来れなかったですが、海外支店に行っている同期の話も聞いたりしました。
そんな中印象に残った会話
銀行組「A君も誘ったけど、”そんな立派になった人達の集まりにはとても顔を出せない”って言って来ないんだよね」
転職組「A君何なしてるの?」
銀行組「(都心大規模店)●●支店で役職についているよ」
転職組「そうなんだ。転職してから、銀行いてた頃の年収超えた事無いけどね」
「勝ち組」の物差し
A君の発言ってどう思いますか?
年収って「勝ち組」「負け組」を分けるとっても分かりやすい物差しかと思います。
そういう意味では(我ら並の)転職組は「負け」てること事は承知で同窓会に顔を出しました。
(※)”並の”とは、大企業重役に就任した主役や、桁違いに稼ぐ規格外の転職組は除く(笑)
一方A君は、(並の)転職組からしたら羨望の年収にもか関わらず、同窓会に顔を出すことに引け目を感じてしまっているようでした。これって何でしょう?
元銀行員として、きっとこんな理由かな、と言う気がして、ちょっと気持ちが分かる気がします。
①転職組に対して・・・銀行の仕事にちょっと疑問がありながら、転職する勇気が持てない劣等感
②銀行組に対して・・・本店・本部じゃ無い、「支店」にいることの劣等感
銀行は、「出世コース」みたいなものが確立されている組織なので、単純な役職以外にも、部署・そこに至るまで異動の順番、昇進の時期から自分が会社の中でのポジションが分かってしまう所があります。40代半ば位になると残酷な位にこの先の自分のキャリアが分かってしまいます。案外A君は、転職組に対して、というより、銀行組に対しての劣等感で腰が引けたのでは?と思っています。(世間一般からすれば、十分「勝ち組」のはずなんですが)
「負け組(?)」の物差し
じゃあ、逆に「負け組(?)」の(並の)転職組は何でノコノコ同窓会に顔を出せたのか?
これについては、転職のパターンが十人十色なので「銀行員とは」みたいなカテゴリーで語れないので、私の主観で語りますが、自分の人生に対する”納得感”じゃないかな、と思っています。
上述の転職組の発言”「そうなんだ。転職してから、銀行にいてた頃の年収超えた事無いけどね」”、は的を射ていると思います。物差しが「年収」では無くなった事、価値観の”土俵”が変わったと言うことを表しているだと思います。
私の場合、”もし銀行に残っていたら”と考えていたら、この年齢なら若しかしたら今よりよっぽど高い年収を稼げていたかもしれないし、大企業だからこその手厚い福利個性も受けられる高い生活レベルを想像したりします。
でも、私は知っています。私は、メガバンクのレベルの高さに自分はついて行けませんでした、銀行員の上司・同僚の価値観、仕事観に全く共感できませんでした。
”もし都市銀行に残っていたら、、、”というのは、ただの妄想、幻想で、私の手に入る可能性は初めから”ゼロ”っていうことで、残念がる事がお門違いなのです(笑)
そんな自分が、ジョブホッパーに成り果てた自分が、ノコノコ同窓会に顔を出せたのは、
①ジョブホッピングしても、”一応”、人並みの生活レベルを維持できている自信
②転職を繰り返すことで、「高い目標には手が届かなかった」「高年収を得るチャンスを逃した(かもしれない)」、が、「やりたく無い事はとことんやらずにここまで来られた」という納得感
があるからだと思います
「そうなんだ。転職してから、銀行にいてた頃の年収超えた事無いけどね」と言った同期も全く違うところでの「納得感」、があるから「年収」なんか気にせずに元同期達と和気藹々と皆と話せているんだと思います
納得感
じゃあ、「納得感」ってどうやれば築けるんだろうって事になる訳ですが。
私の独断偏見で語らせて貰うとすれば、「自分が主役」、という生き方をする事じゃないかなー、と思います。
逆説的に、「自分が主役じゃない」、生き方が何かというと、これは昭和、平成前半には割と当たり前だと思うんですが、「この会社に一生を捧げる」みたいな、就職した会社に人生を丸ごとBET(賭ける)生き方がそうなんじゃないかと思います。
例えば新卒でメガバンクに入って、順調に出社してトップクラスの年収を稼いで、高額の退職金を得て悠々自適な老後を過ごす、、、。
若しかしたら、一昔前はこんな人生は割と高確率で手に入ったのかもしれません。でも、今はメガバンクですら合併もあればリストラだって有ります。最悪倒産すらあり得る時代です。こんな人生設計は一攫千金のギャンブルみたいなものになりつつあるような気がしています。
世の中の変化のスピードが早くなって、どんな大きい会社でも、自分の人生を賭けて安泰な時代ではなくなったかもしれません。
ギャンブルに一生を賭けるのも人生、ギャンブルから降りて自分の手で切り開いていくのも人生。
でも、会社に完全に身を委ねてしまうとそれは本当の意味のギャンブルになってしまうと思います。ギャンブルって勝てば快感は得られますし、負けた時には絶望感が打ちひしがれるような体験をすると思います。でもきっとそこに「納得感」は生まれないんじゃ無いかというのが個人的な意見です。
仮にどんな生き方、社会人人生を選ぶとしても、その結論に至るまでにしっかり考え抜いて、行動して、その結果に辿り着いた現状に対して、人は「納得感」を持てているんじゃ無いかと思います。
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